前略 X様

NHKワールドで「熱中時間」を見ていたら急に画面が切り替わって北朝鮮がミサイルを発射したという緊迫感のあるニュースになった。
予想通り迎撃は無く、何事も無く終わったが、しばらくの間は特別番組が続き、同じような事をダラダラと話し続けていた。
KBSワールドでは日本と同じような感じの緊迫感のあるニュースが流れていたが、CCTV新聞チャンネルは海外の一般ニュース並みの扱いだった。
つまりは大騒ぎしているのは日本と韓国だけなのだろう。

昨日、誤探知のニュースが流れ、後にその原因が解説されて思ったのだが、日本は平和ボケしているだけではなく、国力が劣化しているかも知れないと思った。
第一に、システムのエラーというよりも、伝言ゲームによる誤報だったということ。
これは防衛に関わる官僚の個人と組織能力の劣化である。
第二に、そのような情けない理由による誤探知騒ぎだったのに、政治家が包み隠さず公表したこと。

これは日本の政治家の判断力が劣化している証拠であると思われた。
大金をかけて迎撃ミサイルを準備しておきながら当たらないかも知れない等と言うのは正直過ぎるのを通り越して単なるバカだ。
日本の政治家には虚々実々の駆け引きが出来ないようなので、生きているか死んでいるかも判らない瀬戸際戦術を取る独裁者にも敵わない。
もっと緊張感を持ってやってくれないと困るのだが、ニュースに出て来る街角でインタビューを受けている日本人の多くは平和ボケそのものなので、政治家がこんなレベルでも仕方ないのかも知れない。

それで今回は日本のマスコミも煽りまくっているが、では戦略的方針としてどうすれば良いのかという部分にはあまり触れていない。
ここが問題なのだが、日本はどういう軍備をするべきなのかという議論が出来ないのである。
それどころか軍備そのものをするべきではないという意見まで罷り通っている。
国民国家で国防方針に関する議論がろくにできないなんて、そんなバカな国は他に無い。

北朝鮮のミサイルにマスコミが大騒ぎしているのは、そういう意味では警鐘を鳴らそうとしているのかも知れないが、その鳴らし方を見ているとまことに心細い。
製造業ではトヨタ式に「なぜ、を5回繰り返せ」とよく言われるが、国際政治や国家の安全保障、国民の安全という事に関して日本のマスコミが「なぜ」を5回繰り返すことはない。
それは日本のマスコミに改善や進歩というものが無い証であり、改善や進歩が無いのはまともな競争相手がいないことの証である。
今、ネットの世論や情報網がその競争相手に育ちつつ有る気がするが、こちらの方はまだまだ発展途上で、旧来のマスコミと同じくらいの影響力は無い。

それはテレビや新聞の世論とネットの世論を比べてみればよく判る。
もともとネット世論は幼稚で過激になり勝ちだが、北朝鮮のおかげでますます「9条廃棄、再武装当然、核武装も辞さず」が当然という雰囲気になっている。
だが新聞やテレビしか見ていない世代はとてもそこまではついて行けていないだろう。
そもそも日本には北朝鮮に舐められても何も感じていない人の方が多い。

それどころか、多くの日本人は日本が北朝鮮にバカにされて強請られている事すら気づいていない。
とは言え、北朝鮮には独力で戦争をする能力は無い。
拉致をするか、テロをするしか能が無い。
そういう意味で、日本領土で人が住んでいる所に外国から侵略軍が来るという心配は殆ど無い。

だが侵略されないからと言って、外国からの暴力に対して安全であるという時代ではない。
特に北朝鮮がますます際どくなり、中国が大国意識を振り翳し、韓国も油断できず、台湾が敵に回り、アメリカが東アジアから手を引きつつある今はそうだ。
僕はよく中国人の大部分は田舎者だと言うが、今は日本人の方が国際的田舎者になりつつあると感じる事も多い。
本当に、日本が平和な田舎のままならどれだけ良かったかと思うが、豊かな暮らしがしたいなら、それと引き換えに田舎者であることを捨てねばならないのだ。

話は変わるが、最近始まったNHKの「プロジェクトJAPAN」を興味深く見ている。
今日は台湾の話だったが、この僕も今まで聞いた事のない、かつて日本人だった台湾人の老人の本音がとても興味深かった。
日本があのような惨めな敗戦の憂き目に遭わなければ、彼らも今頃は沖縄の古老のようになっていたであろうにと思うと、日本の政治的失敗のツケはまことに罪深いと思わざるを得ない。
だがこの仮定は意味が無いので、戦争に負けた日本がひたすら悪いという国際的な見方を政治的に受け入れざるを得ないのだろう。

そして台湾統治を単純に成功だったと能天気にも思い込んでいる者は、一つ是非とも考えておかねばならないことがあるということに気づかされた。
いかに文明化しようと、皇民化して同化しようと、それだけを以って恩を施したと思ってはならない。
何故なら台湾人も朝鮮人も、大陸の中国人と同じように日本人にバカにされていて、差別された記憶が今も鮮烈な記憶として残っているからだ。
これは原爆のように後に尾を引くから、単なる殺し合いの記憶よりもひょっとするとタチが悪いかも知れない。

かつて日本は中国と中国人をバカにして、泥沼の戦争に引きずり込まれた。
「ルールを守らず、約束を守らない中国人に一撃を加えて反省、萎縮させ、日本の都合の良い秩序を回復する」という帝国軍人の発想は、中国人を腹の底からバカにしていなければ生まれようがなかった。
そして現代でも、中国に進出して失敗している企業経営者の多くは中国や中国人をバカにしている。
日本人からこの発想が抜けない限り、僕は日中の不幸な憎しみ合いの関係は続くと思うのだ。

日本人は特に匿名性が強いネットの世界では中国人をバカにしている。
2chやYahoo掲示板を見ていると、中国人をバカにする書き込みばかりだ。
単にバカにするだけではなく、事実を以って中国人の面子を粉砕し、例えばチベットという中国の痛いところを突いて政治的にも追い込もうとする。
それが中国人には悔しくて悔しくて仕方が無いから、何とか日本人に意趣返ししようとする。

その象徴が「フリー・チベット」と言われると、バカの一つ覚えみたいに「フリー・琉球」と繰り返す愚かな中国人の群れである。
沖縄は現在の日本領の中で、大日本帝国の失敗の為に最も多くの重い犠牲を払わされた。
それを知っている本土人は沖縄には格別な配慮をしようとするが、アメリカに占領された期間が長く、軍事的な要地であることから彼らにとって幸せな天地を日本の力で築き上げることがいまだにできず、本土人は沖縄にはいつも心に負い目がある。
僕は個人的には早く道州制に移行し、沖縄県を琉球州として高度な自治権を与え、例えば香港のように一国二制度的に発展可能な道を用意してやるべきだと思うが、そのためには先ず日本の中央政府がもっと政治的にしっかりしていなければならない。

話が逸れたが、既に同化して久しく、今すぐに独立させるには無理が有り、民主政治が定着している沖縄を、一党独裁の元に宗教まで踏みにじって蹂躙されているチベットと同一視するのは無理が有る。
しかし沖縄のことを言われると日本人としては正直心が痛い。
自由にしてやりたくても、日本全体がアメリカに属しているも同然なので、それもできない。
そういう所を突いて来る中国人は卑劣という一語では言い表せないくらい憎たらしい。

だがそういう相手がムキになるような意趣返しは、言わば中国人の得意技であるから、簡単に激昂してはいけない。
戦前の日本も、そういう卑劣な意趣返しをされて己を見失い、中国との泥沼の戦争に引きずり込まれたのだ。
そもそもが、日本人が中国人をバカにし過ぎているので、彼らも売られた喧嘩を買って、得意の悪口で日本を揺さ振っているのだ。
要するに何が言いたいのかというと、幾ら相手が卑劣で好きになれなくても、バカにして見くびってはいけないということだ。

中国をバカにして破滅した日本は、子々孫々まで中国に嫌がらせをされるだろう。
しかし日本人は前と同じ手に引っかかってはならない。
相手はしたたかで、悪口を言わせたら世界トップレベルの中国人なのだ。
日本人は中国人をバカにしている暇が有るなら、己の子孫が更なる不幸に晒されないよう努力し続けなければならない。

早々
前略 X様

国語において鄭の子産曰く、防民之口甚於防川(民の口を防ぐは川を防ぐより甚だし)、と。
中共の政策が正にこれで、その愚かさはインターネットの時代になっても全く変わらぬ。
異論を許さぬ、というよりも、人民が本当のことを知ってしまい、事実を基に中共の、特に統治の正統性を批判するのが怖くてたまらないのだ。
日本人が中国や中国人の悪口を幾ら言っていても放置しているし、また日本国内に居る限り放置せざるを得ないが、中国国内に居る者が本当の事を言い出すと、中国人だろうが外国人だろうが神経質になる。

それこそ正に小心翼翼、この一介のサラリーマンに過ぎぬ僕ですら怖いから口を塞ごうとする。
現に僕は自分のブログで自分が書いたことを中国では見られないのである。
ひょっとして、何かの間違いでこのブログが有名になってしまうと、こういう形で自分の考えをアップすることも許されなくなるだろう。
中国のインターネットは閉じているからそういう事が出来ると中共は思っているのだろうが、それこそインターネットなら方法は幾らでも有るから無意味な徒労だ。

しかし個人的に腹が立つことは立つ。
中国人は相手が誰だろうと正面から反論されると面子を潰されたと感じるので、反論をするならできるだけ穏やかに、多くの人々が一遍に判ってしまわないように反論するのが礼に適っていると思っている。
つまり論理的合理的で効率的に自由な議論が出来ないのが中華というものである。
論理的合理的で効率的に自由な議論が出来ないのだから、世界を変えるような新しくて良いものが他に先駆けて生まれるわけがなく、先進的なものは真似し続けるしかない。

これでは何時まで経ってもコピー大国から抜け出せないし、個々の中国人が幾ら優秀でも、組織対組織では欧米や日本に敵わないわけだ。
同様なことは小中華である半島にも言えるかも知れない。
自戒を込めて言うが、自らへの反論を言う口を塞いではならないのだ。
特に事実を挙げての反論に対しては。

そういう中でフラストレーションを溜めているのは僕のような日本人だけではない。
だから本当に中共にとって触れて欲しくない事を正面切って多くの人々に語りかける場合には工夫が要る。
それは古来より中国の文人が試みて来た方法である。
中国だけではなく、日本でも、例えば近松の忠臣蔵がそのような方法で書かれている。

しかしそのような方法で書かれた文章は、同時代に多くの理解者を得る事が難しい。
古典とか、教養というものを共有している者の間でしか通じない暗号文であることが多いからである。
誰も他人のフラストレーション発散が目的である暗号文など読もうとは思わない。
そういう暗号文を読もうと思う人が多くなるのは、同じフラストレーションを抱える人々が多くなった時だけである。

今、中国人の中に、そのようなフラストレーションを抱えている人は、そう多くはない。
日本人に至っては皆無に近いのではないか。
何しろ日本国内に居れば、幾らでも中国の悪口を言ってフラストレーションを発散できるので、暗号を使ってまで中共にモノを申す必要が無い。
しかし現に中国に住んでいる僕はそうはいかぬ。

僕は別に、孫文を応援した日本人義士のように中国人を煽って中共をひっくり返したいと思っているわけではない。
やろうとしても僕一人ではそんな途轍もないことはできないし、そもそも不満を持つ人がまだ少なく曲がりなりにも全般的に平和な状態を達成している政権を転覆するなど、その国の人にとって迷惑極まりない行為だ。
思うのは、せめて日本語を理解できる中国人に重要な事実を知って欲しいという事と、そのような事実を基に中共統治の正統性に少しでも疑問を感じて欲しいということである。
中共の好き放題を放置していては中国やその周辺国は滅茶苦茶になってしまうので、批判する目を養って欲しいのだ。

それは或る程度、日本人に対しても言える。
ネットの掲示板は中国人を嫌悪したり憎悪したりする下品な文言のオンパレードだが、そのような子供じみた文章は見るに忍びない。
中国人の欠点を論って悪口を書いている日本人の多くは、中国の多くの地域に旅行したこともなく、中国の本当の田舎に行ったこともない。
そして中国人を平気で侮蔑する書き方が出来る日本人は中国人の友達もいないだろうから、中国人が心の底ではどのように感じ、どのように考えているのだろうかと思いを巡らせることも無いだろう。

互いに互いを知らず、罵詈雑言し合っている状態は現状の不幸であるばかりでなく、将来の危機だ。
それは独り中国だけの危機ではなく、日本にとっても危機である。
日本人の中に、聞く耳を持っている人を見つけるのは比較的簡単だ。
だが中国人の中にそのような人を見つけるのは難しいので、これからも僕は中国人とのコミュニケーションについて考え続けなければならない。

早々
前略 X様

春分とはいえ大連にしては過剰に暖かい日差しが降り注ぐ。
絶好のゴルフ日和だが、僕は工場が稼動していなくても仕事しに出て来る。
貧乏暇無しになるのは、作るものが無いのに仕事が増える不思議の為。
日本の本社は日本の組織らしく議論が大事で、その議論の為の資料は現場にいる我々が作っているのである。

大蔵マフィアの陰謀か、中川大臣のおかげで神風が吹いた為替市場もモラトリアムが過ぎて再び円高に振れ出す。
結局根本的な改革を何もしていないから悲観的にズルズルと状況が悪化するだけ。
何が悪かったのか判明しているのならすぐに改善しろよ。
責任を取りたくない奴等に責任を取らせられない権力が居座り続けたらいかんだろ。

日本ではネット世論と非ネット世論が分裂しているので、日本人の多くが実際にどう思っているのか判り難いんだが、中国や韓国に切れ過ぎるとあまり良い事が起こらんよ。
先の負け戦も、元はと言えば隣国のだらしなさや無法さに日本人がブチ切れたことが発端とも言える。
中国に来て十数年になんなんとする僕にして今でもブチ切れそうになることが多いので気持ちは解るが、本当にブチ切れて先に手を出したら負けだ。
まず普通の中国人は他人の政治的理屈を事実と因果関係から論理的に理解してあげるという思い遣りに欠けているのだから、よほどこちらが戦略的かつ粘り強くなければ勝てないのだ。

そして韓国には、WBCを見ても判るようにもう力づくでは勝てないのだから、日本人は気持ちを強く持って正々堂々スキルを磨くしかない。
ところが日本は「ゆとり教育」のおかげで若者がダメになっているそうだな。
先日読んだ新聞記事に、日本の名門高校にも中国人が来ていて、そこから東大京大に合格しているということが書いてあって驚いた。
しかしもっと驚いたのは、その記事に対する僕の周囲の中国人の反応だった。

僕の周囲の中国人たちは、別に金持ちでも何でもない、タダのサラリーマンであって、子女にエリート教育を授けているわけでもないという人が多いが、それでもその中の一人がこう言い放ったのには耳を疑った。
「最近の日本人の子供は勉強しないから、日本の名門校なら欧米に比べて楽に入れる」
ショックで暫く言葉が出なかった。
日本の政治、日本の教育、日本の家庭、日本の子供というのは、戦う前から中国に敗れている。

この分では、日本の主要な組織が中国人によって乗っ取られてしまう日も、そう遠くなかろう。
最大の国賊、売国奴は「ゆとり教育」を推進し、外国人を日本を動かす主要なポストにつけてしまえるよう筋道を付けつつある者達であろう。
そういう獅子身中の虫を退治できない日本のシステムというのは脆弱過ぎて話しにならぬ。
しかしそういうシステムの脆弱さを促進し、支えて来たのが、やはりそういう獅子身中の虫たちであるという事を思えば、現在の日本の情けない姿や、将来の日本の見たくない状況というのは、或る意味彼らのユートピアで、彼らの思う壺なのであろう。

どうしてこうなってしまったのか、と思うにつけても残念なのは、日本の左翼学生運動が国際共産主義の理念で隣国のナショナリズムという感情との連携を図ろうとしたことである。
だいたい、借りてきた理念と他人の感情を結び付けようとするという事自体が危なっかしいのであるが、安保世代の日本の学生はマルクスや漫画を読んでも韓非子やマキャベリを読んでいなかったようなので、政治に人間個人の道徳倫理を直結させることの危うさを理解できていなかったのであろう。
思えば、僕の父親もそうであったし、僕を教えた教師達もそうであった。
自分が、自分に教えを垂れた頃の彼らの年齢になってみて、初めて判る彼らの愚鈍さ、勉強不足、そして知的不誠実さ。

だから僕は学校の教師はもちろん、学者研究者という肩書きの連中にも滅多な事では心から敬意を払わない。
本物かどうかは、少し話してみれば判るので、本物だと判った学者研究者に対しては即座に心から敬意を払う。
そういうわけで、それを知らずに僕のいる会社を訪ねて来る経営学者やその研究者の方々は可哀想である。
相手にされないだけならまだしも、侮辱されたと感じた人もこれまでいたのではないか。

しかしそれは仕方のないことだ。
学者研究者を名乗るくせに、勉強が足りないから悪いのだ。
しかしそうすると、「ゆとり」世代から出て来る日本を代表する知性という者は、いったいどのような姿で出て来るのであろう。
いや、それよりも、その前に、彼らをそのようにしてしまった我々の政治的失策をどのようにしてリカバーすれば良いのだろうか。

貧乏は辛いし、社会に自分の存在意義を認めてもらえなくなることはもっと辛い。
でも世の中はまだ未来に向かって進んでいるのだから、現在の自分の苦境を何とかしようとするだけでは大人として無責任ではないか。
僕はもう、自分自身の遺伝子を残すという意味での子供ができることはどうやら望めそうも無い。
でも、僕の言葉を理解できる日本の子供達の為に、何とか「ああ日本人として生まれて良かった」と思わせてあげたい。

その為には、隣国との競争に勝たねばならない。
別に彼らを不幸にしなくても、彼らが日本を恨まないように日本が幸せに勝つ方法は有るはずだ。
そういう方向性を見据えて、考えないからいけないのだ。
ビジョンを持って、戦略を考えて、という努力をしないからいけないのだ。

早々
前略 X様

中国は正月ボケが未だ収まらず、ついにビルを一棟丸ごと花火に供した。
いつかはやると思っていたが、思っていた以上の大戦果だな。
都会に住んでいるのに田舎者のセンスが抜けない中国人は、畑の真ん中で爆竹を鳴らすこととビルの谷間で打ち上げ花火を上げる事の区別ができない。
文明の進歩について行けない巨大な田舎者集団は、かつての農協が巨大化した姿だ。

かつて日本人は農協を笑う余裕が有ったが、中国人には農民を笑って見ていられる余裕が無い。
誰がどんな目に遭おうとも、とにかく自分が生き残る為に必死になって動く。
だが自分が気分良く生きる為には他人のことも考えてやらねばならんのだよ。
そういう道徳を教える者が国家宗教しか無い国の国民性は卑劣になっていく。

然り、民族が悪いのではなく、国家が悪いのである。
歪な国家は歪な国民を量産する。
近所迷惑な国民を増加させない為には、近所迷惑な国家に圧力をかける必要が有る。
日本の場合は、外国に圧力をかける前にマスコミに圧力をかける必要が有る。

かんぽの宿は赤字を垂れ流すから作った時の値段では誰も買ってくれない。
それなら引き取って再建しましょうと申し出れば経営数字を読めないKY大臣とマスコミ世論から袋叩きに。
しかしそもそも赤字垂れ流し施設をお客様から預かったお金で作った連中がいけないんではないのか?
オリックスが叩かれるのは宮内さんの不徳の致す所だから仕方ないが、鳩山さんが大騒ぎして官僚の失策を隠そうとしているのは大変見苦しい。

仕事は有るのに失業者がそっちに流れていかないのは何故なのか?
それが本質的な問題とは違うのかね?
議論が脇道ばかりに逸れて行くのは解決しなければならない問題を共有できていない悪い会議の見本。
話し合いで問題解決を目指すと烏合の衆と化す日本人はいっつもみんなの笑い者。

企業がこぞって赤字赤字と騒ぐのは今なら責任を問われないから膿みを出しているだけ。
歴史的な大不況は庶民にとって不幸でも経営者にとっては幸い。
平均点以上の経営者なら来年は揃ってV字回復間違いなし。
だが膿みを出してばかりだと世の中が膿みだらけになって不景気が続いてしまうかもね。

膿みと言えば、まるで今の世界は抗癌剤治療中の癌患者のようだな。
癌を小さくする為に、癌とは関係の無い健常な細胞まで苦しめられ、通常の生体機能に支障を来たしている。
何が一体癌なのかが判っていれば、手術して取り出す事も出来るのに、何が癌なのか判らないのだな。
癌というのは中国でもアメリカでもロシアでもなく、他人を不幸にするビジネスモデルで自分の欲望を満たそうとする浅ましい人間なのだがな。

早々
前略 X様

朝青龍、すげえなあ。
問題児であることは確かだが、勝負師とかショーマンとして客を呼び、相撲協会にお金を運んでくれるのだから追い出せないのだろうな。
国技と言ってもプロレス興行と同じで、権威は有っても収入が無いと成り立たない見世物だからな。
マネジメントがこれだけ難しいのであれば、外部からプロの経営者を呼んだ方が良いかもなあ。

でも日本ではプロの経営者というのは希少だからなあ。
そもそも育てようとしていないし、そういう職業が一般的に認められてない。
単にトップに立つ高給取り、位にしか思われていない。
政治家もそういうところが有ると思うんだが、それでは全体最適を目指せないんだよなあ。

さて、仕事の都合で春節までに帰国できず、女房はオンニのいる韓国に行ってしまい、僕は独りでこうして大連で旧正月を迎える事になった。
店という店はシャッターを下ろし、とりあえず夕方は6時になると所構わず花火に爆竹でテレビの音も聞こえない騒音地獄。
経済発展と共にひどくなる大陸のこの馬鹿騒ぎ、年が変わる夜になるとどういう事になるのやら。
香港では花火や爆竹を私物化できなかったので、これほどのストレスは感じなかった。

この私物化の精神が大陸の文化の中心概念であり、欧米人や日本人に最も忌み嫌われる前近代的なところだ。
地大物博の中国で、何処まで行っても私物ならざるは無し、という恐ろしい文化的現実。
だが近代文明の与り知らぬ中国の田舎だけの現実であれば、我々外国人も知ったことではない。
問題は中国人、特に漢民族の殆どが、外国人からは商業民族と思われているのとは裏腹に、農民、日本風に言えば田舎者であることである。

中国人にとって「農民」というのは田舎者の意味で使う言葉で、差別臭が強い。
不合理だったり、マナーに欠けるような振る舞いをすると、中国人同士でもこの言葉をよく使う。
言わば罵倒語の一種と言っても良い。
中国語は日本語と違って悪口の語彙が豊富だが、「農民」というのはその中でもかなり複雑な意味を含む罵倒語である。

僕は北京人の老師から普通話を習った時、「中国語では農民という言葉に差別感は無い」とわざわざ教えられた。
しかしそれは政府筋を身内に持つその老師の公式見解であって、現実はそうではない。
中国の農民というのは文明や都市生活の常識を知らず、鼓腹撃壌の世を生きる時代錯誤でしぶとい存在だ。
だが公路に唾や痰を吐きまくったり、エレベーターの中で喫煙したり、騒音を出したり、腹を出して歩いたり、列を作って並ばなかったり、といった今や世界的に有名な中国人の悪徳は、一部を除いて中国農民の専売特許ではない。

そういう反公共的なマナーの悪さは、途上国の国民性に共通することであることが多い。
もちろん日本でも若い不良はよくやる。
以前帰国中に或る大型ショッピングモールで、見た目も普通の若者が廊下に唾を吐いているのを見て驚愕したことがある。
それが中国人の特徴のように思われるのは、一にも二にも数が多くて目立つからである。

では目立つもへったくれも無い中国ではどうか。
僕が感じるのは、田舎では許されるが都会では許されないやり方であくまで暮そうとする田舎者が都会を跋扈しているということだ。
唯の田舎者なら、余程の強情者でもない限り、都会に馴染めば「田舎者性」は薄まり、是正されるだろう。
しかし中国の田舎者は数千年の歴史を持つ「農民」であり、都市を包囲して天下を取った者の末裔である。

そのしぶとさは折り紙付きであり、世界中のどこに行こうとも、その性質が一夜にして集団的に変化するということは有り得ない。
では日本がかつてそうだったように、中国の農民は世代が変わると都市住民となって行くのか?
そして都市労働者の方が多くなって田舎が過疎になり、国民性の質が全体的に向上するのか?
僕はそうは思わない。

僕の女房は時々「魯迅の気持ちがよく分かる。魯迅になりたい。」と呟く。
江戸期蘭学が明治を開いたと知った魯迅は医学を志して日本に来、そこで初めて中国の全体的現実を認識した。
そして人体に巣食う病ではなく、国家や国民や民族に巣食う病を治し、欧米や日本にも侮られない真の独立を勝ち取ろうとして文学を志した。
だが魯迅が恥じ、改善しようとしたアジア的停滞の総本家のような中国の前近代性は百年や二百年では変わらない。

毛沢東が1億や2億は死んでも構わぬと思って全てを破壊する覚悟で発動した闘争も、最初から最後まで下らない奪権闘争に終わった。
本気で文化に革命戦を挑もうと思っていたのなら、何らかの救いも有ったかも知れないが、闘争が毛沢東や四人組の私的なものに終わったから、単に中国的で悲惨な内乱になった。
何が私的で何が公的かという区別が付かぬ中国農民は社会を破壊する原動力には成り得ても新たな価値が支配する社会を創造する力は持たない。
だから中国の戸籍制度は農民が国内を移動する自由さえ奪って土地に縛り付けようとする。

それならば明治日本のように教育にお金をかけて田舎者根性を叩き直せば良いのに、自分達は農民ではないと思っている都会の支配者層や富裕層も根本的に「農民」だからそれができない。
いや、やろうと思っている志の高い人もいるが、そういう人は偉くなれないのが中国だ。
日本も中国の事を言えるほど偉くはなくなってしまったが、少なくとも志を伝える言葉が有れば、偉くなることができる可能性が有るだけマシだ。

空襲のようにしつこく花火の音が鳴り響き続け、頭痛がしてきた。
まとまった思考ができない。
中国人が現実を直視できず、事実を重んじず、論理的な思考が苦手なのはこういう文化を遺伝させてきたせいである。
中国人の祝いの日に、僕は中国に居たくない。

早々
前略 X様

中国の役人も日本の政治家や役人が公費で外国豪遊をするように豪遊する。
日本の政治家や役人の場合は、当地の大使館や領事館のスタッフをヘトヘトに疲れさせ、当地に進出している日系企業にまで負担を強いる。
激励してくれなんて頼んでいなくても、激励しにやって来る。
たいていの場合、彼らは本当にどうしようもない田舎者で、専門知識も無く、見識も狭く、教養も無く、心遣いも無く、全く何をしに外国に行っているのか、単に遊びに行っただけと思われて当然の旅行に公費を使いまくる。

中国の役人も同じで、挨拶に来いと言わなくても、ご丁寧に書記や市長が代わる度に日本の本社に挨拶に来てくれる。
そして挨拶が終わると秋葉原とか銀座とか浅草とかにお送りする。
最近、日本では銀聯カードが使える店が増えたので、中国の役人も安心して公費でバカ買いができる。
というか、中国人が最も安心してバカ買いができるのが日本のお買い物ゾーンなのである。

先日、ピップエレキバンの磁気ネックレスを日本で買って来てと頼まれた。
肩こりに悩む中国人の中年に最近非常に人気があるアイテムである。
中国でも似たようなものは売られているのだが、どれが本物か判らないので、日本で買ってきて、そして人民元で売って欲しいという。
磁気ネックレスなんて、本物と贋物でどれくらい効果に違いが有るか知らないが、中国人は中国ブランドだけではなく、中国で売られているというだけで最早信用が出来なくなっている。

ちょうど15年前、僕が初めて中国に来た時は、万年筆だとか、ライターだとか、ウォークマンだとか、そういう小さくて基礎的なものを日本で買ってきてくれと頼まれた。
2、3年前までは、中国でも売っているCASIOの電子辞書を日本の秋葉原で買ってきてくれと頼まれた。
中国に来ると、ブランドというのは国を挙げて作らねばならない信用であるということがよく分かる。
そして日本に残る最後の財産は、そういう信用しか無い、と思うようになる。

だから日本のネットユーザーが掲示板上で必死になって不正を糾弾する姿勢を僕は支持する。
マクドナルドのサクラくらいの事でも、馬鹿馬鹿しいほど力んでみせる姿勢を僕は支持する。
それが未来の日本を救うと信じるからである。
子孫の為に美田を買わず、大人はもっと信用を重んじる姿勢を示すべきである。

ある集団に信用が有るということは、その集団のモラルが高い水準で保たれているという事を意味する。
日本に中国や韓国に比べて信用が有るならば、日本人のモラルが彼らに比べて高いという事だ。
昔の日本人は、モラルが高いということ、そのものを誇って、モラルの高さを維持する事ができたらしい。
それが「武士は食わねど高楊枝」ということであり、「痩せ我慢の説」というものだろう。

それが観念的になり過ぎると、モラルが高いという事と選民思想が歪に結合してしまい、なにやら胡散臭い皇国イデオロギーになってしまう。
だから集団のモラルが高いという事を日本人は観念的に捉えるのではなく、実用的に捉えた方が良かろう。
即ち、モラルが高いという事を以って世界の金持ちを相手にし、その金持ちに、モラルの高さに由来する信用の有る財やサービスを売って生計を立てる、という戦略である。
これはまことに日本人に適合した「武士の商法」であると思うのだが、そういう一つ間違えれば言葉遊びに堕しかねない発言を連発する政治家というのが今の日本に見当たらないのが困る。

それは政治家が言葉のセンスを磨く努力を怠っているからだろう。
政治家だけではなくて、新聞テレビのメディア連中もそうなのだろう。
だから作家や芸能人がいきなり人気政治家になったりするのだろう。
語りかける言葉にセンスが無ければ指導者になることはできない。

話は変わるが、最近のニュースを読んでいると日比谷公園に集まった失業者の群れのことを否応無く考えさせられる。
先ず思うのは、平凡だが、彼らは失業即ホームレスという立場に在りながら、貯金をしていなかったのだろうかということ。
僕は大学時代に一ヶ月10万円で暮していた。
それで家賃も払って死なないように食べて銭湯に行ってタバコも吸って本も買って時々麻雀までしていたのであるが、20年前に比べてそれほど物価が高くなっているわけでもないので、今でもその気になれば難しくないであろう。

という事は、失業即ホームレスに転落するような人は、少なくとも計画的に暮していたわけではない。
お金があれば、有るだけ使ってしまうような人々に違いない。
それは山谷や釜ヶ崎の日雇い労働者の群れのようなものだろう。
だとすれば、一般企業や政府が彼らを無理して雇用することにより救うことは難しい。

暮らしの計画を自分で立て実行することが出来ない彼らを救うことが出来るのは、慈善団体や宗教団体である。
実際にあれを主催していたのはNPOだったようなので、おそらくその類の組織であろう。
大企業や大金持ちが余剰金を使って為すべき社会貢献は、この場合彼らを雇うことではなく、その手の慈善団体に寄付をする事かも知れない。
ヤマトの小倉さんが遺した事業に見られるように、身体障害者でも、計画的に行動する事の重要性を教えられれば、採算が取れるビジネスに参加して自立することができるのであるから、問題は仕事のスキルとか、努力の有無ではない。

彼らに関する限り、そこが最大の問題であると思うのであるが、そのように問題の根本を洞察した記事を未だ目にしていない。
それはひょっとすると、マスコミが能無しだからではなく、そういう一見「強者の理不尽な仕打ち」という設定を強引に作りたがっているからではないのか。
人間は往々にして理不尽な風景を求め、それによって救いとか言い訳とかカタルシスを得ている。
しかし、少なくとも既存メディアだけから情報を得ている人々に比べて、ネットからも情報を得ている人々はそのような安易な救いやカタルシスを受け入れようとはしていないようだ。

それは健全で良い事だ。
もうそろそろ、報道という名で事実を伝えるフリをして、実は「大衆受けする物語を提供してやっている」、と思っている連中の罠に嵌るような幼稚さから抜け出しても良いだろう。
新聞記事を大学入試の問題に使っているようではダメだな、という理屈が受け入れられる今のような時代に僕が若者であったなら、僕は今のような人生を歩んでいなかったかも知れない。
だが、それはそれで良い。

早々
前略 X様

旧正月でもないのに工場が止まっているんだが、お金がもったいないので家で洗濯したり掃除したり炊事をしたり。
女房は中国の会社に勤めているので、まるでお手伝いのオバちゃんだ。
年末進行のNHKワールド・プレミアムは大して面白くない。
ネットのニュースでは高二が母親を殴って死なす、か。

経験したことのない人には実感が難しいと思うが、精神病患者と一緒に暮すと、厳しいんだよな。
自立した分別のある大人でも辛いんだから、高校生には、まして相手が母親なら、介護している自分の方が参ってしまう。
自分が正気なのかどうか、覚束なくなる。
それほどの事、報道の際には必ず断っておかなければ、唯の家庭内暴力による親殺しだ。

それを書かないわけだから、日本の新聞記者やデスクというのは余程の馬鹿か、無能か。
いずれにせよマトモではない。
僕の大学の同級生で新聞社とかマスコミに行った連中は、皆すごく頭が良かったのだが、どうしてこうなるのだろうな。
思想というか、哲学というか、そういうものが感じられんな。

もちろん思想や哲学が有れば良いというものではないが、無いと唯の小賢しい悪になってしまう。
つまり知の体系として不安定なままで言論を職業にしているのだな。
修行も勉強も足らん、と。
そういう話が多かったなあ。

これからどうなるんやろ。

早々
前略 X様

大連の製造業14%成長を維持-国家統計局が見通し
12月27日17時6分配信 サーチナ
国家統計局大連調査チームはこのほど、大連市の製造業の2008年暦年の工業生産が前年同期比14%以上の伸びを維持するとの見通しを発表した。新華社が伝えた。
同調査チームによると、08年は世界的な景気悪化のあおりを受けて、中小企業の生産の伸びにやや鈍化がみられたものの、全体で14%以上の成長を確保できるという。(編集担当:服部薫)

11月に入ってから、地元政府が各企業に対してヒアリングを続けてきたのだが、その成果がこれかね。
まるで大躍進政策だな。
今後各地方政府が先を競ってこの手のご注進を北京に上奏するのだろう。
昨日は、中国の経済は日本より早く復活するかも、みたいな事を書いたが、こりゃ下手すると大躍進や文革並みの大混乱が待ってるかも知れんな。

話は変わるが、今、中国人は日本製の、日本で買ったアイテムを欲しがっている。
ニュースには携帯電話の話が出ているが、僕も先日、中国人に喜ばれるアイテムを見つけた。
ピップエレキバンの磁気ネックレスは肩こりに効くそうだが、これが中国の中年の間で流行っている。
中国でも買えるのだが、どれが本物か偽物か判らないので、出張して来る日本人に日本で買ってきてもらうのだそうな。

昔からこういうのはあった。
15年前は、万年筆だとか、ウォークマンだとか、そういうものが多かったのだが、今は携帯電話や健康器具か。
相変わらず、中国人が中国で売られているものを一番信用していない。
思えば王朝時代から中国では古典が偽書だらけなので、隋唐代に遣唐使によって招来された経典を日本から逆輸入して中国人は有難がっていた。

日本には偽書を後代に伝えようとする風習が無い、という事は昔から中国人の読書人もよく知っていた。
それは辛亥革命の伏線にもなったものだ。
という事は、中国人の偽物作りは、高度成長期の一時的な現象ではなく、文化的な遺伝である。
つまり中国人自身をも悩ますこの問題は、子々孫々まで絶えることが無いのだろう。

食品も偽物だらけ。
工業製品も偽物だらけ。
情報も偽物だらけ。
おかげで中国の周辺民族、特に日本が、中国で生まれた本当に良いものを正直に受け継ぎ、発展させ、それによって金儲けができるという構造になっている。

まったく、有難くて涙が出るよ。
中国が隣にあるから、日本の価値がいや増すのだな。
日本だけ有ってもオリジナルなものが出にくく、中国だけ有っても完成度が高いものが生まれない。
こういう見事な補完関係が有るのだから、日本人は中国と着かず離れず交流するべきなのだろうな。

早々
前略 X様

オリンピックが終わり、中国は情報統制を再び強化している。
この僕の殆ど誰もチェックしていないブログのページですら、中国から更新はできても一般読者として見る事が出来なくなっている。
どういう理由で当局に検閲されているのか知らないが、少なくとも中共は僕の書いたものに気が障ったか、或いは中国人に読ませたくない何か不都合な事が書いてあると思ったわけで、或る意味では名誉な事である。
大袈裟な言い方をすれば、こんな世界から無視されているような言語空間に対してさえ、当局は恐れを抱いているのであるから、天晴れと言うべきかも知れない。

世間は百年に一度の不景気が突然やって来たということで騒いでいる。
僕の勤める会社でも工場の農民工を切らなければならない事態に追い込まれている。
だが工会は「農民工なんて、クビになったら故郷の農村に帰るだけなんだから、過剰になったらどんどん切ればいいんだ」と言う。
日本の労組も基本的には正社員の利益を代表しているのだろうから、不景気になったら期間工や派遣社員なんてどんどん切ってしまって、少しでも自分達のボーナスが減らないようにして欲しいと腹の底では思っているのだろう。

中国の農民工の場合、都市での仕事を無くして故郷に帰ると農作業が待っているが、飢え死にすることは無いし、住む家が無いという事は無い。
ところが日本の都市生活者の期間工や工場の派遣社員はそうではないらしいということが日本のニュースからは察せられる。
彼らには最早帰るべき農村も無く、支えてくれる家族や一族親戚も乏しい、というトーンである。
もしもそういう人が実際に多くて、日本の治安状況を揺るがしかねないのであれば、そういう失業者を収容する場所を一時的に役所が用意してあげる事にも意味が有るだろう。

だが日本のマスコミは例によって信用できない。
今から十数年前、僕が香港に住んでいた時に、たまに帰国すると青いビニールシートで作られたテントが村のようにあちこちに有って驚いたものだが、既に日本ではそういう状況が再び出現しているのだろうか。
そういう風には報道されていないところを見ると、もうそれが当たり前になってしまったのか、それとも派遣切りの初期段階である為に、まだそこまで状況が深刻化していないという事なのだろうか。
いずれにせよ、派遣切りに遭って即座に住む家を無くした人が次々と凍死する、というほど深刻な状態ではないのではないか。

でも日本発のニュースを見ていると、そういう風に感じられてしまう。
そしてそういう風に感じさせて、そういう人達に援助の手を差し伸べることが政治の急務であるという世論形成をマスコミが目指しているように見える。
政策の優先順位付けはマスコミが主導して行なおうとしているのだろうが、マスコミが導こうとしている政策の優先順位というのは、一体誰がチェックしているのだろう。
本当に、総花的で拙速な景気、失業対策の優先順位が日本全体にとってそれ程高いものなのだろうか。

それを議論している暇が無いほど急激に経済情勢が悪化したから、麻生政権にも打つ手が無く、民主党は徳政令的救民策をゴリ押ししようとしているのだろうが、それがマトモな事かどうか、1日で良いから立ち止まって考えてみてはどうか。
例えば、昭和の始めにあった大恐慌と比較する話があちこちに見られるが、大恐慌とは何であったのかという話から始めるのは迂遠に過ぎるのだろうか。
大恐慌は、過剰生産によって引き起こされたという言われ方をする事がある。
何に対して過剰なのかというと、バブルが崩壊した時の人間の欲望の大きさに対して生産能力が過剰なのである。

それは今回も全く同様なわけで、現在の世界が保有している生産能力は、全ての人が「お腹いっぱいではないが、当面は足りる」という水準に比べて著しく過剰なのである。
そしてその過剰な分の需要を満たすために雇われている人が、こういう調整期に真っ先に整理されてしまう労働力である。
人間の欲望は気分によって過大になったり萎んだりするので、財やサービスを提供する企業は、その落差の調整をどのようにして行なうかという事を常に考えなければならず、その調整方法の選択肢を管理する為に政策や法律が存在する。
工場の派遣切りがそれ程恐るべき非人道的な行為なのであれば、製造業にそのような選択肢を与えてしまうという政策がそもそも非人道的なのである。

そのような非人道的な選択肢が日本の製造業に与えられてしまったのは何故か。
日本の製造業の経営者達が、そうしなければ日本国内に製造拠点を残し、存続させられないと考えたからである。
そしてそれは製造業のコスト面から経営を見た場合、至極尤もなことである。
規則正しく正確で常に改善を志向する単純作業労働者は、日本人でなければいけないわけではない。

だから不景気の時にそういう単純作業労働者が整理されてしまうのは仕方が無い、と考える。
単純作業労働者は機械と同じ生産手段なのだから、需要が無いのに巨額の費用をかけて会社全体の経営を危うくするわけにはいかない。
問題は不景気の時でもそういう整理された労働者を受け入れられる仕事場を用意していないという事だろう。
同じ会社内で配置転換できれば一番良いのだが、単純作業労働者は単純作業しかできないか、或いはそう看做されているからそういう仕事をしているわけなので、単純作業の需要が無くなれば同じ会社に留まることは難しい。

結論としては陳腐だが、先ず企業は、せめて正社員の雇用は維持しなければならない。
だが企業努力には限界がある。
やはり政治だ。
政治はこれ以上悪くならないようにしなければならない、というだけでは不足だ。

根本的な解決策は、理想的には単純作業労働者を受け入れられる産業作りだ。
そういう企業家を生み出せるような環境作りだ。
後々に害が少ない景気の呼び水だ。
しかしこれらは皆、机上の空論である。

単純作業労働者は設備ではなくて人間なので、経済合理性の示す全体最適に向かって職場を転々としてくれるわけではない。
その点、中国の農民工の方が、日本の期間工に比べて遙かに合理的な行動を取るので、恐らく日本よりも中国の方が景気回復は早いのではないかと思う。
日本は遅れて景気が深刻な後退をし、回復するのも最も遅くなるわけだ。
それが嫌なら、みんな仕事や住む場所を選んでいる場合ではない。

グローバル経済というのは、自分の働く場所、国や地域を決めることができるのは経済的強者の特権であるという経済だ。
僕だってそうだが、本当は阪神間のどこかに住んで、月に一度くらいは甲子園で野球を見たいのだが、それが叶わぬからこうして中国で仕事をしている、という部分もある。
だがバリバリ働こうとすればするほど、客は世界に求めざるを得ないから、自分の住みたい場所でゆっくり暮らせない。
そして日本人が世界の客の為に働いて稼いで円が高くなれば、外国から多くの出稼ぎが日本にやって来るのは止むを得ない。

彼らは日本人ではないが、日本に住むからには日本の流儀を守ってもらわねばならぬ。
ところが日本には彼らを受け入れる準備が今もってできていない。
ビジョンも戦略も当面の方針も合意されておらず、従って法律もシステムも整備されていない。
この状態で高い円がこれ以上続けば、日本に居る単純作業に従事する外国人は、戦前の朝鮮人と同じ目に遭うだろう。

不景気、治安の悪化、排他的ナショナリズムの過激化、と一直線に進む者も多いだろう。
ナショナリズムが日本が国家として自立する為のパワーになれば良いが、今の日本で排他的ナショナリズムを最も強烈に持っているのは実は外国で生活した経験の無い引篭もりであろうから、そういう建設的な仕事には力を活かせまい。
そうして国民感情が一度、そのような暗い傾きをし始めれば、ギョーザ問題に見られるように止めることは難しい。
日本は一国を挙げて引篭もりを選択するのかも知れない。

それは日本だけではないかも知れない。
あの大らかなタイ人が、あのような引篭もり的ヒステリーを起こすとは思わなかった。
残念ながらタイ人は今後しばらくの間、国際的にバカにされ続ける悲惨な選択をした。
それが天安門のように国家の指導者によって直接的に引き起こされた事態ではなかっただけに、猶更悲惨である。

しばらく書いていなかったので、話題の焦点を絞れず思いつくままに書いてしまった。
いかんなあ、不景気は。
ろくな事を思いつかない。
40代になって、気力も体力も衰えてきたのが辛い。

早々
前略 X様

戦争とか政治といったものは、畢竟それが正しかったか間違っていたかではなく、成功だったか失敗だったかという見方で評価されるべきだろう。
日韓併合も、大東亜戦争もその類の歴史的事件であり、それが日本国民にとって成功だったか失敗だったかという見地で語れば、ほぼ100%の日本人が「あれは失敗だった」と言うのではないか。
中国の正史というのは、どれもこれも、正しかったかどうかという史観が文章全体を強烈に支配しているが、政治的に正しいかどうかというのは所詮思い込みである。
そういう意味で、大東亜戦争や日韓併合に正義の観念を持ち込む日本人は、中国人や韓国人と同じ土俵の上で戦おうとしている危なっかしい人々であると最近僕は感じるようになった。

正しいか、正しくないかという観点で見れば、双方に正義が有るだろう。
そういう言い合いなら、弁が立って思い込みが強い方が勝つ。
弁が立たず反省癖のある日本人は中国人や韓国人に負けるから、日本人もいろいろ思い込んで、自分達の正義を復活させようとせざるを得ない。
Yahooの掲示板などで催されている日本人と中国人、韓国人の言い合いは、正にそういう現象である。

この類の話題で、どちらが正義だったかという言い争いは不毛であるばかりでなく危険である。
日本の昔滅び去ったはずの大日本帝国の正義が目覚めるということは、中国にとっても韓国にとっても災いのはずだ。
ところが今、愚かな中共や韓国の挑発に乗せられて、日本人はその正義を目覚めさせようとしている。
失敗を繰り返さない為の改善や予防策が万全ではないのに、同じ正義を掲げれば、組織的方法論的に大して進歩していない日本人は再び同じ失敗を繰り返す可能性があるので不安だ。

高級軍人が官僚ならば、彼は正義を語ってはならぬだろう。
正義を語るのは政治家や思想家の仕事である。
軍人はひたすら勝たなければ意味が無いので、成功と失敗だけが政治的な評価の基準でなければならない。
そうでなければ、ノモンハン以来の日本軍の悪しき伝統がまた復活してしまう。

その意味で、幕僚長の肩書きのまま正義を語る事は職分を守っていないことであるし、その論文の典拠が曖昧で学問的に厳密な検証に堪えられないというのは論文としても失敗している。
つまり田母神氏は二つのポイントにおいて過ちを犯しているわけで、この人を神のように賞賛するというのは、その正義に激しく共感している人が多いという意味しか無い。
僕自身は彼の正義に一部共感する部分は有るが、全て真実だとも思わない。
何よりも当時の日本の指導者達が、今と変わらぬ愚か者であったということが引っ掛かって、安易な同情をさせないのだ。

僕自身は自分を愛国者だと思っているし、天皇陛下万歳で日の丸君が代大いに結構と思っている。
様々な反日勢力と、どのように対決するべきかを折に触れよく考えている。
しかしそれとこれとは別の話で、僕は愛国者や右翼(帰宅部系)である前に、過激派や狂信者といった「正義の虜」になっている人が大嫌いな普通の庶民なのである。
「正義の虜」になっている人というのは、自分の正義の為なら簡単に他人を否定し、精神的にも肉体的にも他人、それも全く何の関わりも恨みも無い他人を抹殺する事に痛痒を感じない非常に迷惑な人なのである。

そういう意味では、オウムの信者達も「正義の虜」だし、何だかよく分らぬ理由で元事務次官を殺した奴もそうなのであろう。
スターリンやヒトラーや毛沢東のような独裁者は無論そうだし、マネーだけが究極的に重要なユダヤ人も、唯一神を熱狂的に信じるファンダメンタリストも、或いはタイで国際空港を占拠していたアホな連中も似たようなものである。
感覚の麻痺か、或いは圧倒的な正義が無ければ、人は他人を殺すことを躊躇う。
何の迷いも無く殺人が可能な人間は、そのどちらかである。

正義というのは思い込みであるから、これを罰することは可能でも公平に裁くことは難しい。
比較的簡単に裁くことができるのは、結果であり、その尺度は究極的には成功か失敗かである。
成功とは、それによって何らかの利益が得られたことを言う。
この利益の中には、例えば心の平安といったような金銭的ではない利益も含まれる。

ところで共通の利害というのはよくあるが、共通の正義、全く同じように重なっている正義というのはあまり無い。
共通の利害による盟友関係は容易に成立するし長続きもするのだが、正義を同じくする仲間というのは得てして最後には内ゲバに走るものだ。
だから世界共通の普遍的正義、のようなものを掲げる連中というのは常に胡散臭い。
かつては国際共産主義運動もその類だったが、環境保護運動も、反捕鯨テロリストも、煙草撲滅運動ですらも、その時代においては一見普遍的正義に見える価値観でもって時代の波を創ろうとしているから僕にとっては胡散臭い。

普遍的な価値というものは有るだろうと思う。
でも普遍的な正義なんて形容矛盾に近い。
有るわけが無い。
だから普遍的な正義を掲げる振りをして近付いてきて、仲間に巻き込もうとする隣人がいたら、本当は用心深くならなければならないのである。

ところが若者に用心が足りないのは世界共通で、だからこそ若者というのはどこの国でも普遍的な正義というものにコロリと騙される。
そして普遍的な正義は必ず最後には若者を裏切る。
だが多くの普遍的な正義は、若者を裏切る前に人殺しをさせようとするのだ。
正義には必ず敵がいるので、敵を抹殺した者に賞賛を与え、更に多くの敵を殺させようとするのである。

だが正義の敵も、多くの場合はタダの人間である。
しかも掲げる正義が異なっても、利害は意外に一致しやすい人間である。
利害が一致しない関係とは、例えば搾取する側とされる側である。
搾取される側が搾取する側を殺すのは、正義ではないとしても、己が生き残る為には非常に正当な行為であり、それ故に狂気ではなく正気と言われる。

ところがこの正気というのは裁かれやすいのに、狂気というのは裁くのが難しい。
互いの利害関係は正確に把握する必要が有るが、他人の掲げる正義なんぞ理解しなくても良い。
にもかかわらず、敢えてその正義を理解して裁こうとするからである。
過剰な正義は人殺しの始まりなのだが、そういう話がしにくい時代になってきて困る。

早々